2009年5月5日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅39 八王子城・その4
Posted on 2009.07.03 Fri 23:59:58 edit
山頂の石碑が置かれている場所は中曲輪のと呼ばれる場所の下段に当たり、現在は屋根付きの休憩所が設けられ、八王子城の本丸・松木曲輪・小宮曲輪はさらに奥にあるようです。
休憩所の先にある石段を登った先には中曲輪の上段となりここには八王子神社があります。
スサノオの八柱の御子神(八王子権現)を祀る神社で、全国的には同じものが八王子神社と八柱神社の名で各地に点在するそうです。
滝山城からこの地に移った城の名称はここに祀られる八王子権現とその伝説に由来し、市名の八王子市はこの城の名前に由来しています。
また、北浅川支流の城山川流域に沿って出来た城下町は現在の元八王子町(もとはちおうじまち)となっています。

神社の南側に位置する松木曲輪。
山頂付近の休憩所と展望ポイントとなっていて、すぐ側らには大きな石碑が建てられています。
この曲輪は中山家範(文献により中山勘解由家範とも勘解由左衛門呼ばれていた)が守っていました。
小田原の役で豊臣側の前田利家軍に攻め込まれてた時には奮戦したものの、圧倒的な兵力に敵わず討ち死にしたとされています。
その勇猛ぶりを知った徳川家康が家範の子息である照守(兄)と信吉(弟)を召抱えることになり、照守は大身旗本、信良は水戸徳川家の家老にまでなったそうです。
(ちなみに父子共に高麗八条流馬術の名手であった)


本丸跡は神社の裏手にあります。
神社の側らにある登り口から細い道を登っていきます。
神社の左右とも登り口があり、いずれの方から上がることが出来ますが、基本的には神社の南西方向にあると思えておいた方がよいでしょう。
(北東側は小宮曲輪があります)

本丸跡は石碑と社があるだけですが思っている以上に小規模もので、そんなに大きな建物が建ていなかったことから、通常は御主殿が執務と居住場所とし、ここは守備的役割をしていたと思われます。



本丸跡から神社裏手の腰曲輪沿いに歩くのですが、殆ど獣道状態・・・。
背丈ほどある草をかき分けて進んだ先に小宮曲輪があります。

小宮曲輪は狩野一庵が守っていた曲輪で一庵曲輪とも呼ばれています。
小田原の役の時は上杉景勝軍の奇襲によってここを落とされたことが落城のきっかけになっととも言われています。

小宮曲輪から獣道を戻っていったのですが途中左手に分れるところがあり、そこから下りると中の丸に出て、さらに進むと八王子神社の(左)北側に出てきます。

▲建物の右側が中の丸で獣道のような登山道を通った先に小宮曲輪が、左手の階段を上ってさらに神社の裏手を通ると本丸跡へ行くことが出来ます。
神社の側らにある小さな社は八王子城の本丸を守っていた横地監物吉信が祀られていて、本来は落城後に落ち延びた奥多摩にあったのですが、ダム建設により今場所へ移されたそうです。

▲八王子神社とその周辺。
先程の写真とは反対側を撮影したもの、神社の左側にある小さな社は本丸を守っていた横地監物吉信が祀られている。
今回は御主殿を中心とした居館地区と山頂付近を中心とした要害地区だけを見てきたのですが、八王子城の構想は壮大な物で他にも詰城の大天主などもあるそうで、全て見るには今回の装備的にも無理があるため機会があればと言うことで、高尾駅へ戻ることにしました。
→次に続く。
2009年5月5日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅38 八王子城・その3
Posted on 2009.07.02 Thu 23:59:42 edit
管理棟まで戻って、先程とは違い橋を渡ります。

上り口周辺はあしだ曲輪と呼ばれる場所。

ここは兵器庫があったとされる場所で、写真の場所から奥へ行くと御主殿へ通じるます。

この上には福善寺のお堂があります。

ここから本格的に山道を進みます。
八王子城山は高尾山など周辺の山を含めてハイキングコースがあり、城郭跡内もコースの一部となっています。

鳥居から10分ほどで金子丸に到着。
金子三郎左右衛門家重が守っていた曲輪です。

柵門台が近くにある8合目。
休憩場所となっているこの場所は登城口から上げって来る旧道と管理棟・福善寺から上がってくる新道との交点となっています。
(写真は右側が旧道、階段が見える左側は八王子神社と城山山頂および本丸、新道は手前側)

登り始めて20分で9合目に到着。

この先に見晴ポイントがありますが、八王子城山ではここと山頂付近にある松木曲輪にしかこういった場所はありません。

9合目からさらに10分ほど歩いて八王子城山山頂に到着です。
→次に続く。
#2009.7.3 1:30 LastUpdate
2009年5月5日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅37 八王子城・その2
Posted on 2009.07.01 Wed 23:22:49 edit
大手道(古道)の突き当たりに御主殿へ渡る橋があります。
これは曳橋と呼ばれ、当時はこれを破壊することによって敵の侵入を防ぐ役割を果たしていたとされています。

古道側から見た御主殿虎口と石垣。
復元当時、橋台石垣に関する資料しか存在しなかったことから不明のままとされ、当時の工事担当者の想定に基づいて復元された言わば推定復元といわれるもので、橋自体は2007年に一度改修され、現代の技術を用いて史跡に合わせて再現されたものだそうです。

このため、架けられた橋の位置もずれている可能性があるそうで橋が架けられた西側に石垣の切れ目があり、実際はそこに橋が架かっていたとも言われています。
八王子城関連のブログにある御主殿側から見た曳橋の俯瞰写真を見たところ、現行のものは不自然に見えます。
・参考(該当記事中の画像を参照)
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane/51103637.html


曳橋を渡って御主殿虎口へ。

この中段に位置する場所には櫓門があったそうで、現在はそれを示す礎石が残されています。

冠木門(かぶきもん)を通り御主殿跡へ。

発掘調査によると御主殿は比較的大きなものだったそうで、建物の礎石の他に水路跡などが多数出土されました。
現在は遺構ほどのために埋め戻されて広場として利用されています。


ここで、管理棟前でゲットした八王子方跡のパンフレットを・・・。

→次に続く。
2009年5月5日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅36 八王子城・その1
Posted on 2009.06.30 Tue 22:30:16 edit
八王子城跡へ行くにはJR中央線か京王線で高尾へ向かい、高尾駅北口から京王バス系列の西東京バスで霊園前停留所へ向かい、バス停から徒歩20分に管理事務所があります。
今回は新宿から京王線で高尾へ。
ここではフルカラーLEDに交換された7000系ですが、京王は井の頭線の車両は比較的多く捉えてますが、本線格の京王線の方は手持ちの画像が少なく「捉えないといかんな〜」と・・・。

高尾駅から出るバスは北口からなので、自由通路がない高尾駅で京王線から北口へ出るにはJR線の構内を通り抜ける必要があることから、連絡改札口に黄色い改札機を通ります。
(中央線への乗換えは緑の改札機を利用で、北口〜京王線通り抜け用とは区別されている)


高尾駅を出て武蔵陵墓地の側らを通り霊園前停留所に到着。
この停留所を通るバス路線は複数あるため1時間に6本以上と多く設定されていることから、ここまでは比較的アクセスしやすいです。

この付近にある八王子城跡入口交差点から西へ。
付近には都営墓地などがあるため、交差点から城跡入口に相当する八王子城跡管理事務所までの上り坂は寺院や石材店が見られます。


八王子城はかつて深沢山とよばれた八王子城山(445.5m)に広がる城郭で、北条氏照によって1587年に築城されたのですが、小田原の役の一環として豊臣軍により築城途上で一日で落城。
その後は徳川家の領地、明治以降は国有林となったため、結果的に落城当時のまま残されることになり、国の史跡に指定されてからは八王子市の手による発掘調査と整備が行われ現在に至ります。

霊園前停留所から20分ほど歩いて八王子城跡管理事務所に到着。

早速パンフレットをゲットして城跡巡りへ。
まずは山城川に架かる橋を渡った先にある広場のような場所は大手門があったそうで、発掘調査後は埋め戻されて、解説の看板が掲示されています。



ここから続く大手道を歩いて本丸跡へ向かいます。

→次に続く。
2009年5月4日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅35 モケットが交換された211系の座席とゲットしたパンフレット
Posted on 2009.06.29 Mon 22:11:04 edit

ここでは町田車両センターの0番台ですが、モケットの色が赤系の蘇芳色(すおういろ)から青緑に替えられていました。

これは初期車が登場して20年を超えて劣化してきたことを受けてのことだそうです。


大崎に宿を取っていたため品川で降車。
これで3日目は終了。

さて、3日目に巡ってきた城跡などのパンフレットです。
まずは三島市観光協会発行の小冊子など。

続いて楽寿園のパンフレットと入場券。

山中城跡を整備した山中城跡公園のパンフレット。

3日目最後に巡った小田原城と小田原市郷土文化館のパンフレット

4日目は八王子城跡を巡ります。
→次に続く。
週末日記 2009年6月28日
Posted on 2009.06.28 Sun 23:38:04 edit
6月最後のお休みである28日は浜大津と湖西線へ撮影のお出かけです。
現地へ向かう前に大阪駅の改良工事を・・・。
新北ビル建設で使用停止となっていた旧9番線には今後北陸本線特急系統のりばとなる新11番線とするための工事が進められ、軌道の再敷設やホームの整備が行われていました。

浜大津ではおなじみの800系などの京津線・石山坂本線の車両を撮影したのですが、この場所において一眼レフでの撮影は初めてです。


皇子山(大津京)乗換えで湖西線へ。
まずはおごと温泉駅での撮影ですが、順光となる下りホーム近江塩津側に撮影隊が集まっていたため、逆エンドの山科・京都方から撮ることにしました(ホームは入ってしまいますが・・・)

撮影している中、珍客が・・・。
これは岡山電車区の223系5000番台で、普段は瀬戸大橋線快速「マリンライナー」の付属編成として使用されているのですが、今月に入って湖西線を中心に試験走行が実施されている中を捉えたようです。
2両編成がえらい早さで抜けていく姿には少々驚きました。

撮影隊は順光となる上り列車を捉えた後、撤退していったようなので近江塩津方を確認してみると、9両まで捉えるには「まあ何とか」と言うところですが、12両になると無理です。
おごと温泉駅は両側をトンネルに挟まれているのですが、ホームが近江塩津方に偏っているため山科方は余裕があることから、順光となる午前中ならいけるかも知れません。
さて、683系4000番台の投入でついに引導を渡されることになった485系は設定し忘れで1本目をしくじり、写真にあるのは2本目で、大阪発の下り列車。

こちらは681系。

ようやく3本目。
先頭は普通車から改造されたグリーン車。

1時間以上粘って堅田へ移動。
一旦改札を出て折り返し戻る序でにもう一粘りします。

京阪神地区に残った117系は登場当時のオリジナルとグリーン帯である福知山色の2種があるのですが、最近になって区番台問わずオリジナル塗装に戻された編成もあり、写真のS4編成は300番台ですが、オリジナルの塗装となっています。

117系の後を追って485系が入線。
堅田停車の雷鳥は先頭がパノラマグリーン車のA2編成。

撮影はこれで終了。
117系に乗って帰宅しました。
#2009.6.29 1:55 LastUpdate
週末日記 2009年6月27日
Posted on 2009.06.27 Sat 23:30:01 edit
27日は南海の最新鋭8000系(2代目)とパイオニアP-III台車からSUミンデン台車への換装による改番で近日中に型式消滅することになった6100系のゲットを絡めて南海と阪和線の編成写真撮影のお出かけをしてきました。
まずは天下茶屋で南海の編成写真を。

この時は撮影隊の姿もなく快調に撮影を進めていましたが、ここで南海本線の7000系・7100系を置換えるために導入された8000系(2代目)に遭遇。

逆エンドを撮ろうと思ったのですが、先に腹ごしらえをしたかったので堺で昼食をとってから羽衣まで先回りして、逆エンドの方も撮っておきました。

羽衣では連立事業に伴う仮線工事が進められていますが、ようやく上り仮線の姿が見えてきたのですが、後は電気や信号系の工事が残っているようですが、和歌山方の高石駅の様子を確認していないので、いつ切り替わるのはまだ分っていません。

東羽衣から久しぶりの羽衣線に乗って阪和線入り。

ここでは津久野で阪和線の編成写真の撮影。
背後の周辺を堀割や集合住宅に囲まれているため、晴天下の順光時間帯が厳しいものの、当日のような雲天時には比較的捉えやすい感じです。


南海高野線の編成写真三国ヶ丘乗換えで堺東へ移動。
ここでは6100系を捉えるため粘っていたのですが、なかなか捉えられず、暫くは31000系や泉北高速の5000系・7000系などでお茶を濁すことに・・・。



ようやく難波行きでやって来た6100系に乗り再び天下茶屋へ。
難波から折り返してきたところを難なく捉えることになりましたが、これは準急の運用だったためこの構図で捉えられることが出来たわけで、区急や各駅停車だったら上り列車に被ってしまうため思うように行かなかったと思います。


この間、8000系(2代目)が難波に向けて通っていったため、和歌山市行きで折り返して来たところを再度捉えました。

この日はこれで終了し帰宅しました。
2009年5月4日 日本100名城と未乗路線を巡る東海道の旅34 小田原城・その3
Posted on 2009.06.27 Sat 18:08:06 edit
下の写真は銅門(あかがねもん)の土壁模型です。
これは小田原市建築協同組合から寄贈されたものです。

二の丸の中程に歴史見聞館があるのですが、今回はタイムアップのため入館出来ずでした。

これは二の丸隅櫓。
現在のものは予算の関係で実物の半分の大きさでしか再建出来なかったそうです。

二の丸堀。

同じく南側を撮影したもの。
中央にある小さな櫓が二の丸隅櫓で、その奥にあるものが馬出門(うまだしもん)。

馬出門は小田原城の中で再建された時期が最も新しく、2009年3月29日から一般開放された門です。

枡形形式である門は二の丸堀側が馬出門(文献により御馬出門・冠木門とも呼ばれている)、馬屋曲輪側が内冠木門の2つの門で構成されています。


これで小田原城跡巡りは終了。
あとは東京都内へ向かうだけです。
→次に続く。
#2009.6.28 2:20 LastUpdate

